非常時に何の役にもたたないのが学者と知識人と呼ばれる人々

 代表的なのが池田信夫氏みたいなタイプだ。
「私は原発推進論者ではない」と言いながら「それでも原発の必要性は無視出来ない」などと平気で言っている。これは何か言われた時の逃げ場を用意した上で自分の言っている事こそが正しいと声を張り上げているような論理で実践力など何もない。

 人間には開けてはならない「パンドラの箱」がいくつかあると思う。「核」と「遺伝子操作」が代表的なものだろう。
 
安全、クリーンと言われ続けてきた原発は臨界が起こったら最後、人間の手には負えない。人力では立ち向かえないものだからだ。今日本で別の原発が同じような事故を起こしたら日本は沈没する前に終わるだろう。生き残るためには流浪の民となって世界に散り散りになるしかない。今すぐ全ての原発を止めて終息させる決断をする事こそが世界の中での日本の役割と言える。

 こういう意見に対して「それは日本人の核に対するセンチメンタリズムだ」などと言うアホな知識人がいるようだが、それを言うのなら
 「福島原発の10km以内に行って住みなさい」と言いたい。
 自分にふりかかる放射能はイヤだが、その圏外で「心配ない」なんていう言葉に真実など見いだせるはずもないのは明らかだ。 
 
「タバコの人体に与える害のほうが、放射線によるものより重大だ」などという論理のすり替えも池田氏はやっている。喫煙者はそれを承知で吸っているのであって、望みもしないのにふりかかってくる放射線の害と比較するのは全く子供の喧嘩みたいなものだ。自分の言葉を正当化するために、こうした比較をするのは人間として最も卑劣な行為だと言っていい。余命3ヶ月を宣告された患者に向かって「余命1ヶ月の人よりいいじゃないですか」と言っているのと何ら変りない。

偉大だと言われた科学者は未知の領域に踏み込んだ先に神や宗教といったものに直面し、慄く。だからこそ彼らは自分が見つけた発見を再考し、悩むのだ。そこに至らずに偉そうな事をたくさんの言葉で煙に巻こうなどという行為は今回のように重大な事故があった時には、一歩間違えば犯罪に等しいものに成り得る。

「無知の知」も怖いが「知の無知」は手に負えない。

仏教の教えの中に「知識は認識を妨げる。真理に囚わればその真理にしばられる」といったような言葉があるが、彼らがまさにこの状態にあるといえるだろう。

学び、恐れ、敬い、そして人を愛する事こそが今一番求められている。

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