ブルシット(たわ言)があふれ出ている

今日の産経新聞、「正論」に書かれていた「言葉の軽さ」についての論説にうなづいた。

国際日本文化研究センター所長・猪木武徳氏が書いている

 なぜ政治家の言葉が空疎に響くのか、特に深く考えることはなかったが、最近たまたま読んだ本によって、まさに「目から鱗(うろこ)が落ちる」ような思いを味わった。
 原題は、On Bullshit。ブルシットは直訳すれば、「牛の糞(ふん)」であるが、その意味は、たわ言、ナンセンスということになろうか。著者は米国プリンストン大学のハリー・フランクファート教授である。デカルト研究を専門とする著名な哲学者だ。
 ≪「嘘」よりも強力な敵≫
 同書は小冊子であるがなかなか鋭くて面白い。まず、哲学者らしく「ブルシット」と言う概念を定義し、その応用可能性を検討する。大事な点は、「ブルシット」を「嘘(うそ)」と峻別するということだ。嘘つきは、故意に誤った発言をするが、「ブルシッター(たわ言をいう者)」は真理には全く無関心なのである。「ブルシッター」は主に聴き手に好印象を与えることに終始し、聴き手を味方につけることにのみ関心を持つ。
 嘘つきは真実を隠すが、そのためにはその真実を知っていなければならない。しかし「ブルシッター」は自分自身の主張を押し通すことにのみ熱心なため、真理を知る必要を感じない。したがって「ブルシット」は、真理にとって、嘘よりも強力な敵となるのだ。
 正確さ、確実さを徹底的に追求したデカルトの研究者だけあって、論理の展開は厳密だ。著者はこの本のあとに「真理について」という著作を公にしている。
 フランクファート教授の指摘で重要なことは、人が言葉として発するものの中には、嘘でも真理でもない、第三種、すなわち「ブルシット」という範疇(はんちゅう)があるということ、そして現代社会がこの「ブルシット」に満ちているということである。

<<蔓延するブルシットは、こんなところにも>>
 ここでは、政治について書いているが、もっと一般的な場においてもこの現象は深く根ざしているように見える。昨日の「勝間VSひろゆき対談」における言葉で相手を打ち負かそうという姿勢こそが、ブルシットそのものだからだ。

 ひろゆき氏はブログでも、「人それぞれに各々のしあわせがある」ともっともらしく語っているが、これは、うがった見方をすれば殺人者が殺人を犯す事に快楽を感じるとすれば、その「殺人者のしあわせ」も認めざるを得ないことになってしまう。

 「快楽・快感」と「しあわせ」を混同しているとしか思えない。

<<言葉は真理を生み出すかもしれない>>
「しあわせ」というのは、周りを含むものでなければ達成出来ないだろう。周りの意味する範囲が家族>友人>地域>国>宇宙 と広がるごとに「しあわせ」という言葉は真理に近づいていくだろう。 

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